子どもの鉄棒・なわとび、今昔(いまむかし)成果は正義なの?

我が家の息子、幼稚園の年中さんになってからというもの、鉄棒となわとびが園での課題になっています。

どこの幼稚園・保育園でも同じではないでしょうか?

昨今は、体育大学出身の専門の先生がやってきて教えてくださる園も珍しくありません。

専門の先生がシステマティックに教えるなわとび

数年前のある日。

保育園の園庭の前をとおりかかると、なわとびの授業が始まっていました。

先生はガタイも姿勢も素晴らしい若い男の先生でした。
確かめたわけではありませんが、体育大学出の専門の先生に違いないでしょう。

専門の先生の教え方は、ひと言でいうと「システマティック」でした。

1.なわとびの端を持って園庭をぐるぐる走らせる。
2.なわとびの端を持って手首を動かし、ヘビのようにクネクネさせる。
3.なわとびをまっすぐ地面に置いて作ったラインを前後にジャンプさせる。

なわとびに必要な動きを分解して、それぞれの動きにまず慣れさせるのです。

自分が園児であった昭和50年代を振り返って、「えらい進歩だこと。」と思いました。

昭和の子供の鉄棒・なわとび風景

私の記憶が正しければ。

昭和50年代、子供がなわとびを始めるのは小学生になってからでした。
遊びの中で、飛べる友だちのマネを、ただひたすら繰り返しました。

ひたすら飛ぶ気で飛べる人のマネをしつづけていると、ある瞬間出来るようになる。

そんなものでした。

鉄棒も同じです。
公園にある鉄棒に楽に手が届く小学生になってから、練習を始めました。

出来る人の姿を見て、ひたすら同じ動き(のつもり)を繰り返していると、出来るようになる瞬間が来る。

そんなものでした。

加えて、鉄棒は練習すればするほど手に水ぶくれのようなマメができて、つぶれて、とても痛かったのを覚えています。
手に出来たマメの数・つぶれたマメの数を友だちと競いました。

鉄棒に関しては、誰が早く上手になったかより、手のマメの数の多さの方が重要だった気がします。

手のマメが増えまくってつぶれまくったら、逆上がり出来るようになる・なった!みたいな風潮?がありました。

小学校の体育の授業でも、鉄棒・なわとびをやりました。
授業の一環ではありましたが、そこは昭和。

みんなでひたすら飛べるようになるまで飛び、回れるようになるまで回りました。

そこに「システマティック」な指導など一切ありませんでした。

そんなものでした。

小学校に上がって困らないように|体操教室の登場

いつのころからか、小学校の授業で困らないようにと鉄棒・なわとび・跳び箱・マット運動などを教えてくれる体操教室ができました。

「鉄棒やなわとびを、わざわざ教室で教えてもらうの????」と不思議に思った記憶があります。

ちなみに私の同級生でも体操教室に通っていた人がいます。
でもそれは「めざせオリンピック」的な超スパルタ体操教室でした。

平成の子供には時間も安全もない

公園で頑張れば鉄棒もなわとびもマスターできたのは昭和時代だからなのでしょう。

4時限授業の日がほとんどでした。
私は週2回の公文式と週1回のピアノをやっていましたが、それでも下校後は毎日ひたすら遊んでいたような感覚があります。

子供だけで鉄棒の棒が見えなくなる夕暮れまでひたすらやってました。
パンツ丸見えで頑張ってました。

5時限授業の日がほとんど&不審者情報の飛び交う平成の世には、有りえない話です。

限られた時間で大人の管理のもと(=体操教室)で鉄棒をマスターするというのは時代の流れなのでしょう。

加えて、

要領よく無駄なく早く出た成果が正義なイマドキ

なんでも無駄なく早く出来たら勝ち。
目まぐるしいこの時代に、仕事・ビジネスで成功するならそのとおりなんでしょうけど。

なわとびや鉄棒はビジネスじゃないし。

要領よくシステマティックに、早くできるようになれば、大人(指導者・親)も子供も「ヤッター!」なのは確かにそうなんですけど。

なんか大人の満足感充足欲?のみがつっぱしっている気がするのは私だけですか?

要領よくとかムダを排除とかより早くとか、幼稚園児がしなければないことなんでしょうか?

そういうのは堀江貴文に任せとこうよ。

暗闇の中でむちゃくちゃに身体を動かしてやっと得るもの

大人の助けなしに、出来てないけどとにかくやりまくって、ある日出来るようになる体験。

暗闇の中でむちゃくちゃに身体を動かして、会得する体験。

こういうの、人生に一度は味わって欲しいと思います。
こういうの味わえるのは、時間と安全が確保できて、頭も理屈っぽくない就学前じゃないでしょうか?

鉄棒もなわとびも専門の先生が来て教えてくれて、出来るようになっていれば、保護者は大満足、文句言う人はいない。

でもでも。

そんな

手っ取り早さ・お手軽さを小さいうちに教えてしまっていいの?

マニュアル至上・教えてもらうのが当たり前・すぐできないとダメ(=諦めてよい)を遠回しに教えてるような気がしてならないのです。

ちなみに、「マニュアル人間」という言葉は、昭和の小学生が社会人になったバブル時代にはすでにありました。

世の中がどんどん便利になるにつれて、すべてがお手軽になってしまうのは仕方のないことなのでしょうか?

そうであれば尚のこと、「暗闇の中でむちゃくちゃに身体を動かして、会得する体験」が大切ではないでしょうか?

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

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